2018/10/17

ぼんやりと過ごすということ

 今僕が何をしていたのかと言えば、寝付くことができなかった代わりとして、録りためていたキューピー3分クッキングを何本か立て続けに観たというところだ。サンマは揚げてからピンセットみたいなもので背骨をつまめば簡単に引きずりだせるらしい。画面の中で料理研究家のおばさんが長い背骨を上手いこと取り出して見せている様子は見事だったが、しかしそうたいした技術が必要なようにも思えない。多少の力加減はあるだろうが、やってみれば自分でもできそうな程度の手作業である。それにしては、あれが自分にも可能なのだという実感が湧いてこない。頭が疲れているからかもしれない。この前にあった大学のテストに向けて、けっこう長いこと無理をして勉強していたから、巨大に累積したその疲労が頭をじんじんしびれさせている。

 何をしたいのか? やりたいことはもちろんいくつもある。数学の勉強、本棚に積み重なった本の数々をこなす読書、料理、外出、すでに構想を思いついている二本から三本の小説の執筆、それから睡眠、おいしい食事、いろいろと。

 だがこのうち僕が実際に手を付けるのはほんのわずかだ。構想ができている小説の執筆に関しては、そのうちの一本を必ず近日中に書き上げるとの約束を遠方に住む友人と交わしてしまったので、さっさとやらなくてはいけない。食事に関しては、今日これから時間があるので昼くらいまでは都会に出て何か好きなものを食べてくることも可能だ。行きかえりの電車で一応多少は本を読めるだろう。それから帰ってきたら少しくらいは数学を勉強するかもしれない。線形代数のテキストを最近買ったところなのだが、買いっぱなしではもったいないと考える程度には僕は常識らしき感覚がある。

 だがそれらの行為は僕の欲求を満たさないだろう。それは経験則からわかる。経験則、過去にこうであったという記憶から導いた雑な統計的結論。ものごとを前に進めたいという欲求が満たされることはないという陰気なこの発想は、生活を動かしていくのに不可欠なはずの意欲をほとんど刈り取ってしまった。

 何をやっても何も進まないし、やったことはどれもてんでばらばらで統一感がなく、またそれらのうちのどれかが時間の中で一続きになって何かの成果とか結実に至るという自信がない。おそらくそのほとんどは、書きたいものをどうやっても書き表すことができなかったという長年の挫折に端を発している。そして生活の記憶の中には、挫折というか崩れていった意志の残骸が目障りなほど立ち浮かんでいる。例外としては去年彼女ができたということがあるが、それは数少ない救いだろう。

 僕が今こうして深夜というか明け方に文章を書いているのは、変わろうという意志があるからだ。僕は自分の文章の美しさを自負している。自分の中の美点、間違いなく自信が納得できそして充足感を与えてくれる長所が、美しい文章を書けるということだ。だから僕は自分が汚い文章を書いてしまうことを極めて恐れる。そして眠れない夜中ほど、文章を書くのに適していない状況というのもなく、このようなタイミングで文章を書くとだいたい間違いなく文章が汚くなる。話の流れは澱み、読み返してみても明快な論旨を追うことによる爽快感などはない。助詞は使い方が変で、文法的にも間違う。だが僕は今そのような状況で文章を書いている。それは変わろうという意志があるからだ。普段なら用いない体言止めを使っているのにもそういうところに理由がある。体言止めとは誰がどう使っても絶望的に分を汚くしてしまうものだとの美意識が僕の中には強固にあるのだが、それを破ってみるのに価値を何となく今は感じているのだ。

 ブログのタイトルは「週刊」となっているが、特別一週間に一回とかいうルールを設けるつもりもない。それから日ごとにテーマを決めて記事を書くつもりもない。思いついた書きたいことを一日の記事に書きたい順に羅列して書く。雑多なテーマを好きなように並べて書くこととなるが、僕の語り口に良さを感じてくれる人ならそういう無秩序さには頓着せず楽しく読んでくれるだろう。そういうスタイルはラジオに似ているような気もするので、「放送局」との言葉をタイトルに冠した。

 次はいつ書くだろう。